つもちゃんのひとりごと (2015年12月)

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2015年12月29日  本日のお題:自立共生的ということ
3か月以上も空けてしまった。最近、表現欲はtwitterである程度満たされてしまい、それなりに労力がかかるこちらは放置状態になってしまっていた。そうはいっても、twitterでは表現しきれないようなことは、たまには書いてみたい。



今日は、「コンヴィヴィアリティのための道具」(イヴァン・イリイチ 著)を取り上げる。業界なら有名であろうtss先生の勧めであって、インターネットに携わる者として一度は読んでおく価値はあると思ったのがきっかけである。
翻訳本は読みにくいのが常だが、この本はそれに輪をかけて非常に難解で、日本語として完全に言葉を理解することすら難しいうえ、筋道立てて議論を展開しているというより、何度も似たようなことを論じているので主張の範囲と全貌が非常に掴み難い。拾い読みにならざるを得ず、私も著者の主張が理解できたとは思えない。以下はそういう人が書いたという前提である。

このイリイチの議論は「世界には多様なレベルと価値観が存在する」という観点が完全に抜け落ちている議論ではないかと感じる。
過去、インターネットは、自立共生的なネットワークであったし、だからこそインターネットであった。参加する人の協力で発展し「ユーザ」ではなくみんなが参加し構成されるものであった。それは、確かに本書における「自立共生」の理想に近いものではないかと思う。
しかし、インターネットが拡大を続けるなかで「自立共生」という概念はかなり薄まっていることも事実である。
インターネットが小さかった頃は、インターネットというものに対して「同じ価値観を共有」し、かつ「一定以上の高度な技術レベルを持った」参加者のみが取り扱えるものが「インターネット」であった。自立共生できる素地のある人しか使えない世界であって、一般人には足を踏み入れることの出来ない世界であった。
それを、世の中に広めることで「より良い世界」にする努力が「ユーザ」という概念の導入であって、それによって、今のインターネットがある。または、利用の拡大により「ユーザ」という概念の導入を余儀なくされた、とも言える。
果たしてそれが「より良い世界」なのか?というのはイリイチの問題提起の部分でもあると思う。今の「ユーザは全責任を提供者になすりつける」風潮は、イリイチが言う「道具に支配された」成れの果てであり、それを考えると共感できる部分もある。
「自立共生」とは、自由であり、しかし自立できるだけの能力がなければならない。インターネットだけではなく、衣食住といった日常生きていくことに必要不可欠なあらゆることを考えたとき、「自立共生」は事実上不可能だと思うし、地球上の皆が選択するとは思えない。そこに制限を加えるということは、ある意味社会主義的であり、その時点で「自立」ではない、妙な矛盾を感じずにはいられないのだ。

ある意味、里山資本主義がイリイチに近い考え方なのかも知れない。

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